Chapter-147 万能科学者西村真琴と學天則
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2007年2月10日 (前回の放送|次回の放送)
今回の番組は筑摩書房から1996年に発行された
「大東亜科学綺譚」荒俣
宏 (著)
を参考にしました。この本には西村真琴さんの他多くの日本人科学者が登場します。是非ご一読下さい。
長野県松本市に1883年に生まれた西村真琴さんはレオナルド・ダ・ビンチのような卓越した科学者でした。生物はみな共存共栄という信念の元、満州や朝鮮などの動植物の収集と研究に尽力し、ロボット学者としては日本で最初にロボットを制作したエンジニアでもあり、日本で最初の科学小説家、北海道大学植物学教授、アイヌ人孤児・中国人孤児の救済に尽力した慈善事業家、政治家、そして晩年には子供は世界共通の財産として幼児教育の振興に努めました。
西村真琴さんは広島高等師範学校卒業後、満州の南満医学堂において生物学教授として3年間勤め、多数の標本を作製しニューヨーク自然史博物館に寄贈したりもしています。その後の欧米の研究者との交流の過程で欧米の植物学の水準の高さを知り、教授職を辞して満州で製作した大量の標本をかかえて渡米しコロンビア大学植物学科に入学しました。この標本を寄贈したのがきっかけでニューヨーク市自然科学博物館調査研究員を委託される幸運に恵まれ、大学に在学した3年間は博物館でアフリカの動植物の分類の仕事に携わりました。
しかし、アメリカ人が日本人を見る目は冷たく、また科学の最先端を走る桃源郷と思っていたアメリカの技術もその多くが、おりしも勃発した第一次世界大戦の最新殺戮兵器へ姿を変えました。西村真琴さんは科学技術の進歩は人類の明るい未来への歩みと共に進むと信じていましたが、ここで自分の考えていた西洋の最先端科学に失望し、3年で帰国します。
その後西村真琴さんは北海道大学に教授として迎えられ、水力発電所からの排水によって絶滅寸前となっていたマリモの救済に全力で取り組み、マリモを他の湖に移植することに初めて成功し、この業績を持って東京帝国大学から理学博士の博士号を授与されます。しかし、当時日本の国民すべてが急速に進展する科学技術に酔いしれ、科学技術に支えられたバラ色の未来と無限の可能性を信じていましたので、それを批判して自然の大切さを訴える西村真琴さんに対する評価は冷酷でした。
そんな折、44歳の時に出版した科学随筆が評判となり、その出版に携わった大阪毎日新聞の誘いで大阪毎日新聞に論説顧問として入社することになります。大阪毎日新聞入社の翌年、当時西村真琴さんは45歳ですが、この歳に、西村真琴さんの業績として最も有名な「學天則」の製作が行われました。
この年は昭和3年で、京都で昭和天皇御大礼記念博覧会が開催され、大阪毎日新聞社の出品作として製作されたのがアジアで最初のロボット「學天則」でした。學天則は金色に輝き、机に座った姿をした座高が2.4メートルもある巨大なロボットです。右手には字を書くために鏑矢を持ち、左手には霊感灯という不思議な道具を持っていました。当時海外で試作されていたロボットは重労働など人間の肩代わりをする奴隷のような機械として研究が行われていましたが、學天則の仕事は「ものを考えること」でした。
大きさが10メートルもある巨大な機械仕掛けの鳥が鳴き声を上げると學天則は思考を始めます。左手の霊感灯が光るのが學天則がアイディアを思いついた印です。霊感灯がひらめくと學天則はかっと目を見開き、天を仰いでにっこりほほえみ、鏑矢をなめらかに動かしてそのアイディアを書き留めます。筆記を終えると自らのアイディアに自らが納得するように首を左右に振り、そして微笑んだと言います。
圧縮空気で動く學天則はあたかも人間が呼吸をするように穏やかに人間と寸分違わぬ動作をしたといいます。西村真琴さんはロボットを機械とは考えずに、生物の一員として迎えようとしていたのでした。
やがて西村真琴さんはそれまでの崇高な知的活動の限界を悟り、自らの身体を盾にした行動に取り組み始めました。医療奉仕団を結成して戦争で傷ついた中国人の救出にあたったり、戦争の犠牲となった中国人孤児を日本の学校に通わせた後に母国中国に帰し職を斡旋する中国児童愛育所の運営をしたり、孤児の救済や保育の改革に73歳まで取り組みました。
なお、二代目水戸黄門で有名で1997年に亡くなられた俳優西村晃さんは西村真琴さんの次男に当たります。また、學天則はその後、ドイツに売却されましたがその直後に行方不明になっています。
[他局の科学番組]
□ディスカバリーチャンネル
□サイエンスチャンネル (SkyPerfecTV
765ch)
□サイエンスゼロ (NHK教育 毎週土曜日 19:00〜)
□地球ドラマチィック (NHK教育 毎週水曜日 19:00〜)
□素敵な宇宙船地球号 (テレビ朝日系 毎週日曜日 23:00〜)
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